「悲しみ」が深いほど問題は解決する
目次
- ○ 深い「悲しみ」を抱えられない人は問題が解決しない
- ・子どもの頃のことを、けっして忘れないでほしい
- ・深い「悲しみ」は、「悲しみ」を乗り越える
- ・隠された「悲しみ」は、正体不明の不調に変身する
- ・まじめな人ほど、深い「悲しみ」に不まじめ?
- ・骨の髄まで、「悲しみ」に正直であれ
- ・自立とは、深い「悲しみ」を人に支えてもらえる力
深い「悲しみ」を抱えられない人は問題が解決しない
「悲しみ」が深いほど問題は解決する―――と聞いたら、あなたはどう思いますか?
「悲しみ」が深いほど問題は解決するのなら、「悲しみ」が浅いと問題は解決しないのでしょうか?
実は、そうなのです。
「悲しみ」が深いほど問題は根本的に解決し、「悲しみ」が浅いと解決しにくいのです。
そのことを、私は、セッションの中で何度も体験してきました。
そのことを、児童文学の名著『飛ぶ教室』の中の言葉から、考えていきたいと思います。
子どもの頃のことを、けっして忘れないでほしい
この小説『飛ぶ教室』は、一人の少年が書いたクリスマス物語という形になっています。物語を書き始める前の「まえがき」として、少年はこんなことを書いています。
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どうしておとなは、自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解できなくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どもの頃のことを、けっして忘れないでほしい。約束してくれる?ほんとうに?)
(『飛ぶ教室』エーリヒ・ケストナー 池田香代子(訳)岩波少年文庫P19より)
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この1節の数行の中にも、とっても深い、いろんなことが入っていて、胸がいっぱいになり、しばらく立ち止まります。私は自分が幼かったころのかなしみを覚えている気がするが。大人になる途中に「ある日とつぜん、まったく理解できなくなってしまった」のだと思います。
深い「悲しみ」は、「悲しみ」を乗り越える
そして、こう続きます。
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人形がこわれたので泣くか、それとも、もっと大きくなってから、友だちをなくしたので泣くかは、どうでもいい。人生、なにを悲しむかではなく、どれくらい深く悲しむかが重要なのだ。誓ってもいいが、子どもの涙はおとなの涙よりちいさいなんてことはない。おとなの涙より重いことだって、いくらでもある。
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私の友だちが言いました。
「この文章はおかしい。どれくらい深く悲しむかではなく、何を悲しむのかが重要だ!」
「何を悲しむのか」「何が悲しいのか」も、もちろん重要です。
それがあったから、私は悲しくなったのですから。
しかし、「どれくらい深く悲しむ」ことができるかによって、悲しみの源泉になった出来事を乗り越えることができ、「悲しみ」を乗り越えるだけでなく、その「悲しみ」があったから、「私」という唯一の存在がこの「人生」を生きている、という確かな信頼のような安心を持てるようになるのだと思います。
どういうことでしょうか?
隠された「悲しみ」は、正体不明の不調に変身する
どこにでもよくあるようなささいな出来事でも、私たちは、特に子どもだった頃の私たちは、時として、ものすごく深く打ちのめされ、傷つき、それを言葉にして表現し誰かに理解してもらえることかもしれないという可能性さえ知らず、全身にその悲しみをたたえ続けることがあります。
しかし、成長するにつれ、その悲しみをごまかす術(すべ)を身につけます。
なぜなら、
・そんな悲しみを感じていることは苦しいから、その嫌な気分から解放されたいから。
・ネガティブな感情はダメで、ポジティブな感情にならねばならない、という「ポジティブ信仰」があるから。
そうやって、紛らわされたり、消されてり、もともとなかったことにされたりした「悲しみ」は、いったいどこへ行くのでしょうか?
どこへも行けません。
身体の外には出ていってくれません。
では、どこへ行ったのでしょうか?
うまくいくと、意識の底の、いわゆる「無意識」の領域におしこめられ、そこに圧縮され、凝縮されて存在し続けます。
でも、「意識」では、その悲しみを悲しみとして感じることを拒否しているので「悲しい」とは感じません。
その代わり、
イライラする
モヤモヤする
落ち着かない
集中できない
肩がこる
眠りが浅い
人間関係がうまくいかない
という不調として現れます。
まじめな人ほど、深い「悲しみ」に不まじめ?
では、どうすればいいのでしょうか
「悲しみ」をごまかさず、どれだけ自分が悲しいかを知ればいいだけのことなのです。
しかし、これが、大人になると、特に仕事などをちからわざで成果を出してきたハイパフォーマーの方は
だから
深く苦しみ悩んだ問題こそ、バキッと解決することがよくあります。
いい加減にごまかして
悲しい感じがする、苦しいかも・・・
というような問題は
本当は解決すべき問題なのに、まだ解決できるまで熟成されていないのかもしれません。
言い換えれば、十分に悩まれていない、もっと言えば、「まじめに悩んでいない」ということになります。
まじめな人ほど、「こんなことくらいで悲しい私は、ダメだ、弱い」と自分の悲しみを大切に扱わず、かなしみを無意識の底の追いやり、悲しくないことにしているのかもしれません。
まじめな人ほど、悲しみにまじめには向き合っていない、とも言えます。
しかし、
私は十分に悲しい、と思っている人も多いです。
でもね、
わたしたちは自分が耐えられる感情を、耐えられる範囲で感じているとも言えるので、自分が「悲しい」と感じているレベルの、5倍も10倍も悲しいのかもしれないのです
骨の髄まで、「悲しみ」に正直であれ
だから、『飛ぶ教室』の先ほどの文章の続きでは、こういっているのです。
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誤解しないでくれ、みんな。なにもむやみに泣けばいいと言っているのではないんだ。ただ、正直であることがどんなにつらくても、正直であるべきだ、と思うのだ。骨の髄まで正直であるべきだ、と。
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ここで言っている「正直である」とは、人に対して「正直であれ」と言っているわけではないのです。「自分の悲しみに対して、正直であれ」と言っているのです。
しかも「骨の髄まで正直であるべきだ」と言っているのです。
自分の悲しみをごまかすな。
悲しいのに悲しくないふりを、自分に対してするな。
言い換えれば
「悲しい」感情がつらいからと言って、「悲しみ」から逃げるな。
と言っているのです。
そうやって自分のかなしみに正直になって、底なし沼のような悲しみに溺れそうになりながらなんとか向き合っていると、その沼の中に立っていきている自分を見出すことができる。
ケストナーはそれが分かっていた。
(ケストナーはどれほどの深い悲しみを、生きていたのだろうか)
まさしく
「人生、なにを悲しむかではなく、どれくらい深く悲しむかが重要なのだ。」
なのです。
自立とは、深い「悲しみ」を人に支えてもらえる力
しかし、自分の深い「悲しみ」をごまかさず、骨の髄まで正直になって「悲しみ」と向き合う、ということは、カンタンにできることではありません。
あなたは、自分一人でそれをやらねばならないと感じてはいませんか?
もし、そう感じているとしたら、それは「まじめ」すぎます。
まじめすぎて自分の感情を大切にできないことになりかねません。
私も、自分一人ではムリでした。助けが必要でした。
「自立」とは、必要な時に助けを利用できる柔らかい心をもつことだと、私は考えています。
深い悲しみだけでなく、
イライラする
モヤモヤする
落ち着かない
集中できない
肩がこる
眠りが浅い
人間関係がうまくいかない
などの悩みの解決のためには、
蓋をして、自分で見ないように隠している感情を掘り起こしていくことが、一番の近道で確かな方法です。
それを、セッションで最速最短でやっています。
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